クリスチャンとしてのアイデンティティ
- Kevin Moore
- 2022年6月14日
- 読了時間: 13分
東京スモールチャーチネットワーク // セレブレーション
2022年6月4日 // Kevin Moore
ディスカッションの問い:
あなたは何に満たされようとしていますか?どうしたら神に満たされることを求められますか?
J.I.パッカーが挙げている6つの真理のうち、あなたに最も強く響くものはどれですか?その理由は何ですか?
私は神の子です。
神は私の父です。
天国が私の家です。
日々一歩ずつ近づいています。
私の救い主は私の兄弟です。
全てのクリスチャンは、私の兄弟姉妹です。
原稿:
ローマ人への手紙 8章14~17節
14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
はじめに
今日はまず、皆さんに質問をしたいと思います。あなたは満たされていますか?考えてみてください。心の奥底まで満たされていますか?それとも、何か物足りなさを感じていますか? 正直に言うと、多くの人がその深い満たしを味わっていないのではないでしょうか。二つ目の質問をさせてください。どこにその満たしを求めていますか?それは無限で、永遠にあなたを支えることができるものですか?それとも限りある、いつか枯渇してしまうものですか?
満たされることと関連しているのが「アイデンティティ」です。 あなたは自分のアイデンティティをどこに置いていますか? 父や母としてのアイデンティティでしょうか? それとも日本人であることですか?もしくは学生や会社員、 宣教師としてでしょうか。 もちろん、どのアイデンティティも悪いものではありませんが、自分自身のアイデンティティをどこに置いているかを理解することで、自分がどこから満足を得ようとしているかを理解することができます。私たちは、配偶者、彼女、彼氏、あるいは友人から満足を得ようとしているのでしょうか? 子供たちからでしょうか? 両親から? 仕事や学校からでしょうか? 宣教活動の成功に満足感を求めているのでしょうか。
私自身は、これまでの人生で様々なものや人から満足感を得ようとしました。 小学校の頃から、成績の優秀さや先生から褒められることに自分のアイデンティティを置くようになりました。 そのことに執着するあまり、先生から少し批判されるだけでも不安に陥りました。 つまり、自分のアイデンティティの拠り所であった先生からの承認が一瞬でも失われると、私は崩れてしまったのです。
また、私は自分のアイデンティティを自分のクリスチャンとしてのイメージに置いていました。 私が通っていたクリスチャンの学校では、毎年、各学年の男女1名ずつに「クリスチャン・キャラクター賞」を授与しており、私はこの賞を何年か連続で受けていました。 この賞は必ずしも悪いものではありませんが、私は自分の心の状態に注意を払うよりも、自分がいかに素晴らしいか、自分が行った宣教旅行、そして教会活動に満足感を見出すようになりました。
また、私は長い間,自分のアイデンティティを人間関係に置いてきました。 高校時代の自分がいかに自分のアイデンティティをガールフレンドに置いていたかを、何年も経ってから思い知らされました。 彼女に別れを告げられ、見捨てられたと感じ、自分の満足感やアイデンティティを他の友人から見いだそうとしました。 私は誰かに深く知られ、愛されたかったので、それを友人に求めました。その結果、友人は疲れ果て、私たちの友情は傷ついてしまいました。 私は再び、周囲の承認によってアイデンティティを得ようとしていました。
問題点
私が経験してきたことは、堕落したこの世に生きる人間として、目に見えないものよりも目に見えるものに満足を求め、自分のアイデンティティを見出そうとする傾向を表していると思います。 タイラー・ステートン牧師は、このように罪を定義します:「罪は、自分の深い欲求をこの世のもので満たそうとすること。」 この問題は、私たち自身の力や、地上のあらゆる目に見えるものには限りがあるということです。 周りの人々が持つ愛やエネルギーには限りがあります。 勉強で得られる知識や成功は限られています。仕事で得られるお金も限られています。 クリスチャンの宣教活動でさえ、満足できないことがよくあります。 もし私たちの最も深いアイデンティティがこの世の何かに置かれていて、それがいつか奪われるとしたら、私たちは土台を失った家のように崩れ果ててしまうでしょう。 私たちが自分の人生で満たされていないと感じてしまうのは、自分のアイデンティティを、無限で永遠の存在ではなく、限られたものに置いているからではないでしょうか。
ですから、「日本人」「医者」「学生」「会社員」ではなく、何よりも「神の子」としてのアイデンティティを持つとしたらどうでしょうか? もし私たちが神の子とされたのなら、私たちはイエスにある兄弟姉妹であり、共同相続人なのです。 相続人であるならば、私たちは聖霊様を受けます。 聖霊を受けたのなら、私たちは神の満ち溢れる豊かさによって満たされ、神のみに満足することができるのです。 もし私たちが最初に神様自身によって満たされることができれば、神様が与えて下さっているもの(仕事、成功、健康、人間関係など)を、究極的な満足を得るためのものではなく、むしろ神からの良い贈り物として感謝しながら受け取れるようになります。 そして、それらの贈り物が奪われたとしても、私たちのアイデンティティはキリストだけにあるため、揺らぐことはありません。
ピリピ人への手紙の中に、皆さんも良く知っているだろう一節があります。 「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(4章13節)。 しかし、この聖句の文脈について考えたことはありますか? パウロは、「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(4章11~13節)と言っています。 つまり、パウロは満足を神ご自身との関係から得ることを学んだのです。 パウロは、「私が落胆したとき、神は私を引き上げてくださった」とか「私が飢えていたとき、神は私に食べ物を与えてくださった」とは言っていないですね。 むしろ、彼は、自分の必要がまだ満たされていないとき、まさにその飢えと必要の真っ只中にあっても、満足することを学んだと強調しているのです。 神の祝福や備えはもちろん素晴らしいものであり、楽しむべきものですが、あらゆる良い贈り物よりも楽しむべきは、神ご自身なのです。 私たちの環境や周囲が変化しても、神様自身は変わることのない方です。 私たちが肉体的、精神的、感情的に豊かな時や貧しい時を繰り返し経験したとしても、私たちのアイデンティティが何よりもまず「神の子」であるならば、私達は揺らがされることはありません。
解決策
神学者のJ.I.パッカーは、クリスチャンとしてのアイデンティティを思い出させてくれる、毎日思い巡らすことのできる6つの真理を挙げています。
私は神の子です。
神は私の父です。
天国が私の家です。
日々一歩ずつ近づいています。
私の救い主は私の兄弟です。
全てのクリスチャンは、私の兄弟姉妹です。
それぞれを簡単に見てみましょう。
1。私は神の子です。
まず、「神の子」とはどういう意味なのでしょうか。 ヨハネの福音書によると、イエス様「…を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(1:12)とあります。つまり、この世の全員が 「神の子」なのではありません。 人はすべて完全で聖なる神によって創造されたので、生まれながらに価値ある存在です。でも、真の「神の子」となるのは、イエスの名を信じ、イエスを受け入れた場合のみに受けられる特権なのです。ローマ8章を見ると、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」と書いてあります。 もし私たちがイエスに従い、イエスが与えてくださる救いを受け入れるなら、私たちは聖霊を受けることができます。 聖霊様が心に宿っている神の子として、聖霊の力によって、自分の肉、つまり罪の性質との戦いに勝利することができます。 私たちは、神の子であることを忘れないようにしましょう。
2。神は私の父です。
ローマ人への手紙8章31節にはこう書かれています「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」 。神は全能で聖なるお方であり、私たちは神により義とされ子として受け入れられたからこそ、神の御臨在に入ることができるのです。 私たちはそれに値しないにも関わらず、神は十字架上のイエスの犠牲によって私たちを赦し、義と認めてくださいました。 パウロはこの箇所で、御霊のない者、すなわちまだ「神の子」とされていない者は、神様に敵対していると強調しています。 全能で聖なる神に敵対することは、安全な場所とは言えません。 ありがたいことに、神が私たちの父であるということは、神が私たちに敵対するのではなく、私たちのために戦ってくださるということなのです。 神が私たちの味方で、私たちの戦いを戦い、ご自身で私たちを満足させてくださることを忘れると、私たちは安全や満足を求めるために、他のものを探し求めてしまいます。 私たちの父である神だけが、真の満足を与えてくださる方であることを忘れないようにしましょう。
3。天国が私の家です。
神学者のC.S.ルイスは、「もし私たちが、この世で満たされることのない欲求を持っていることすれば、最も納得できる説明は、私たちが別の世界のために造られたということである 」と書き記しました。 パウロが語るように、私たちの国籍は天にあります。私たちは神との完全な関係を持つよう創造されているため、この世の見えるものは何も私たちの心を満足させることはできないのです。 この世で肉体を持って生きている間は、罪深い肉の性質がまだ私たちの心の中に存在し、絶えず神の御臨在から私たちを離そうとしています。 しかし、いつか、私たちは罪の性質を持たない新しい体を持つようになります。 私たちの母国である天国で神様と出会い、神様により完全に満たされるのです。 天国が私たちの帰る家であることを忘れないようにしましょう。
4。日々一歩ずつ近づいています。
クリスチャンとして、私たちはよく 「永遠の視点」 について話します。 ヤコブ4章14節に書かれているように、「あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」つまり、天国での永遠に比べれば、私たちの地上での人生はほんの一瞬に過ぎないのです。 地上の人生が重要でないわけではありませんが、永遠は比較できないほど重要なのです。 天国で神様と会い、永遠に神様の完全な臨在の中で生きることを待ち望むのであれば、現在の苦難の中でも喜びと満足を得ることができます。 この地上で生きる一日一日が、天国に一日ずつ近づいていることを忘れないようにしましょう。
5。私の救い主は私の兄弟です。
もし私たちが神の子であり、イエス自身が神の子でもあるなら、イエスは私たちの兄弟です。 パウロは17節で、私たちはキリストとともに共同相続人であり、キリストが受け継ぐものと同じものを受け継げると述べています。いつまでも天国でイエス様のそばにいられるということです。 しかし、イエス様の兄弟姉妹として、私たちは「栄光をともに受けるために苦難をともにしている」とパウロは言っています。 イエスはヨハネの福音書において、弟子たちに「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)と仰っています。 つまり、私たちが苦難に直面したとしても、イエスは決して私たちを見捨てません。イエスは悪との戦いにすでに勝利されたのです。私たちの救い主であるイエスは、満ち足りる時にも、飢える時にも、私たちのそばに歩いてくださる兄弟であることを忘れないようにしましょう。
6。全てのクリスチャンは、私の兄弟姉妹です。
もし私たちクリスチャンが神様の子であるなら、クリスチャン一人一人は私たちの兄弟姉妹です。私たちの父である神様は私たちのために戦ってくださいますが、私たちもお互いのために戦うことができます。「教会とは何か?」のスタディで学んだように、私たちはキリストのからだとして、それぞれの賜物を用いて協力することができます。私たちは互いに愛し合い、支え合い、祈り合うことができるのです。この最後のポイントは、クリスチャンでない人は皆、私たちの兄弟ではないということをも意味します。しかし、教会として私たちは、神が一人一人を創造され、ご自分の家族に招いておられるという良い知らせを宣べ伝えることができます。神様は一人一人に神の子とされ、聖霊を受けるチャンスを与えてくださいます。一人一人が、唯一本当の意味で満たして下さる方を見出すチャンスを持っています。すべてのクリスチャンは私たちの兄弟姉妹であり、私たちの周りにはまだ神の子とされていない者がたくさんいることを忘れないようにしましょう。
クロージング
今年の初め、私はとても落ち込んでいました。信仰の分かち合いや、弟子を育てることをもっと上手くできたはずなのに、宣教活動を失敗したと感じていました。アメリカにいる間、日本での宣教活動を辞めたいと思ったこともありました。孤独を感じ、自分のことを完全に知って愛してくれる友人がいればと願っていました。子供の頃の経験から来る不安も感じていました。シンプルに言うと、自分が神の子であることを忘れてしまったのです。私の人生を通して様々なものに満足を求め、自分の心の深いところにある欲求を、自分の周囲のもの、つまり限られたもので満たそうとしていました。ここ数ヶ月間、クリスチャン・カウンセラーと会う中で、私は自分自身をより深く理解することができ、周りの人々から認められることで満足しようとする傾向があることに気づきました。自分がアイデンティティとしているものが失なわれた時、周りの人から承認されなくなったとき、一番不安になるのだと気づきました。以前から頭では分かっていたことですが、神様だけが満足させてくださる方であり、神様は私が深い喜びと平安を経験することを心から願っておられることを、より深く魂で体験することが出来ました。
皆さんも、このことを頭で理解するだけでなく、心でも体験できるよう祈っています。クリスチャンとしてのアイデンティティについて、この6つの文を暗記してみてくださいね。私は神の子です。神様は私の父です。天国は私の家です。日々一歩ずつ近づいています。私の救い主は私の兄弟です。そして、すべてのクリスチャンは私の兄弟姉妹でもあるのです。自分が神の子であるというアイデンティティが、あなたの心を変えていき、あなたに満足をもたらし、肉から御霊へとあなたを導いてくださることを祈っています。皆さん、あなたには大きな価値があります。それはこの世の肩書きや功績によってではなく、完全な神によって創造されたからです。そして、あなたが満足できるのは、あなたが王なる神の子どもだからです。神はあなたを家族に迎え入れ、息子、また娘とされたのです。
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