主の御声を聞く、ということ
- Kevin Moore
- 2021年6月26日
- 読了時間: 25分
更新日:2021年7月5日
サムエル記第一3章1−18節 // セレブレーション 2021年06月26日
原稿:Kevin Moore // 説教者:中澤重光
原稿は以下の通りです。
こちらは、英語のバージョンです。
ディスカッション:
1) 今、あなたの人生の中で、この旅のどの段階に位置していると思いますか?
- 無知:私はまだ神様を知らない、あるいは、神様を知っているが、その声を認識しない。
- 認識:神様とその声を知っているが、神に注意深く耳を傾ける時間をとっていない。
- 積極的な聞き分け:神の御声がはっきりと私に語りかけているのを聞いているが、従うために必要なステップを踏んでいない。
- 服従:神の御声を認識することを学び、神に注意深く耳を傾ける時間を作り、聖霊の力によって神の導きに従っている。
2) 以前と比べて、神さまの声を聞き、神さまの導きに従うことに近づいていますか、それとも遠ざかっていますか?
3) あなたが今どの段階にいるかに応じて、どの段階に移行したいと思いますか?それを達成するために、あなたができる1つか2つの小さなステップは何ですか?
原稿:
サムエル記 第一3章1~18節
1 さて、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。2 その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。3 神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。4 主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、5 エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。
7 サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。8 主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。10 主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。11 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」15 サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。17 エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」18 サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」
導入
大学3年生の頃、2016年2月のある朝、私は目覚ましを寝過ごしてしまい、午前8時からの授業に間に合いませんでした。この時期の私は忙しさに悩まされていました。生物工学の授業の上、研究室でのボランティア、コーヒーショップでの仕事、キャンパスクルセードでのミニストリー、そして病院のインターンシップへの申し込みがありました。疲れ切っていたと言っても過言ではありません。ただ忙しいだけではなく、忙しすぎて、病的な忙しさとも言えるかもしれません。もしゆっくりする時間があったとしても、それは誰かに強制されたものであり、もっと言えば自分の体に強制されたものであった、この日はそうだった。体がどうしても2時間の余分な睡眠を必要としているようだった。10時頃に起きた私は、その日の午後まで授業がなかったので、聖書を手にしてベランダに座り、神のみ声を聞こうと御言葉の中で時間を過ごしました。
神のみ声を聞く、つまり、神が何か考えや感情を与えてくれるまで黙って黙想して待つということは、この年、定期的に実践しようとしていたことでした。でも、やはり、実際に座って行う時間を作ることはほとんどありませんでした。今回は、読み終えた後、しばらく座っていました。おそらく30、40分は、神さまと二人きりで黙想していました。その前の月に、私は医師になることをとても楽しみにしていたのに、医学生になることは自分には向いていないのではないかと少し考えていました。しかし、神様が何をしてくれるのかはわかりませんでした。私は日記に、
「父よ、私をお導きください。あなたの聖霊様が私の人生を完全に支配するようにしてください。私の将来と医学部についてどうすべきか教えてください。私は感情的な経験に振り回されたくはありませんが、あなたの御臨在を経験することで感動したいのです。父よ、私の魂に安らぎを。私に道を示してください。」 何年も黙って待っていたような気がしましたが、この考えが私の心に浮かびました。「医学部進学の道を捨て、写真家になるというバックアッププランを捨てて、私の福音を世界に伝えなさい。」 この頭の中の声は、さらに言えば、私の魂、心、一番奥なる存在の中心にある声であり、喜びと権威に満ちていました。圧倒的な平和の感覚が私の体の上に注いでおり、すぐに神が私と共におられ、私に語りかけておられることを知りました。これは神の声だと確信した私は、その日のうちに授業のスケジュールを変更して医学部進学クラスを外し、親しい友人や家族の多くに、神が私を宣教師になるように召されていることを伝えました。
この時点で、私は、神のみ声を認識し、その声に積極的に耳を傾け、聖霊の力によってその声に従うことができるようになっていました。しかし、最初からそうだったわけではありません。私は、無知から認識へ、そして認識から傾聴へ、そして傾聴から従順へと移行するのに何年もかかりました。神殿で神に起こされた子供サムエルの物語は、神のみ声を聞くことを学ぶ過程を完璧に表していると思います。契約の箱の隣で寝ていたサムエルにとって、これは一晩のうちにあっという間に起こったことです。しかし、私たちにとっては、神のみ声を聞き、従うことを真に理解するには、もっと時間がかかるかもしれません。
この箇所では、サムエルが無知から認識へ、認識から積極的な傾聴へ、そして最後に傾聴から従順へと移行していく様子が描かれています。
無知のままで始まること
サムエル記の箇所、3節から振り返ってみましょう。 3 神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていた。4 主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、5 エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。6 主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。7 サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。
ここに見られるように、神は明確に語っておられます。このケースでは、声に出して話しているようにも見えます。しかし、サムエルは神の声を知らないので、その声を他の部屋から呼んでいるエリだと思ってしまいます。7節では、サムエルがまだ神を知らなかったことが明らかにされています。
旧約聖書では、創世記28章のヤコブのはしごの話を思い出します。 ヤコブが眠りについた後の12節から、こう書かれています。「12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。13 そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15 見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」16 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」」
この場合、サムエルが起きているときに声を出して話すのとは異なり、神は夢を通してヤコブに語りかけます。夢の中では、使いたちが天から地へとはしごを昇り降りしている光景が描かれています。ここで印象的なのは、神がヤコブに語られた内容よりも、ヤコブの反応です。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」確かに主はその場所におられたのに、ヤコブはそれを知らなかった。まことに主はこの場所におられる。私たちはそのことを本当に深く知っているだろうか。私たちは主の御臨在に気づいているでしょうか?
エリがサムエルに指示する前、ヤコブが夢の中でこのビジョンを見る前、それぞれがこの事実を知らなかったのです:神はその場所におられます。神はすでに働いていて、彼らに語りかける準備ができていたのです。私は、神のみ声を聞くことを学んだ自分の旅を思い出します。サムエルのように、私は長い間、神の声に無知でした。イエスに従うことを決めた後にも。おかしい例ですが、私には中学生の時に付き合っていた彼女がいたのですが、頭の中で「この関係は今のあなたには向いていないから別れた方がいい」という声が聞こえていたのですが、その声が神様の声だとはあまり認識していませんでした。声の出所が分からないので、頭の中で言葉が聞こえても、耳を傾けることができなかったのです。もちろん、聞いていなかったので、従う機会もありませんでした。正直なところ、14歳という若さでありながら、彼女はしばらくの間、私よりも神の声に耳を傾けていたのです。実際、私は彼女からイエスと共に歩むことについて多くのことを学びました。
無知から認識へ
では、神様のみ声を聞くためには何が必要なのでしょうか。まず、その声を認識する能力が必要です。サムエルがどのようにして無知から認識へと移行したのか、サムエルの物語を振り返ってみましょう。 8節から読みます。8 主は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられるということを悟った。9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。10 主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
今回は何が違うのでしょうか?神の方は、サムエルの名前を4回目に繰り返しただけで、あまり変化はありません。今回の主な違いは、サムエルが、神から聞いた経験のある人から教えられたことです。サムエルが聞いているこの特別な声は、主が彼の注意を引こうとしているのだろうと教えられたのです。エリは言って、「主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」このエリの短い指示により、サムエルは無知から認識へと移行することができました。
このプロセスにおいて、私たちはサムエルとどのような共通点があるのでしょうか。まず、神の御声を聞き、認識するためには、神の前にいることが非常に重要な要素です。旧約聖書の時代に生きていたために聖霊を持っていなかったサムエルは、3節に書かれているように、神の箱の中に宿っている神の御臨在に近いところにいました。この神の箱(つまり契約の箱)は、神の住まいである幕屋(まくや)の一部としてイスラエル人が持ち歩いていた聖なる箱で、最終的にはサムエルが眠る神殿に置かれていました。イエス様がこの世を歩く頃には、この箱は神殿の聖所と呼ばれる部分に置かれており、厚い幕の後ろにあり、大祭司だけが年に一度だけ入ることができました。この大祭司は、世界で唯一、神様に直接アクセスできる人でした。しかし、復活祭の前の受難日に学んだように、イエス様が十字架につけられたとき、その厚い幕は上から下まで破られ、すべての信者が神様に直接アクセスできるようになりました。この点はとても重要なので、見逃すわけにはいきません。イエス様が十字架で死んでくださったおかげで、すべての信者は神様に直接アクセスする特権があるのです。私たちは、神父(しんぷ)や牧師が私たちのために神と話したり、神のメッセージを伝えたりする必要はありません(もちろん、神はこのような形で彼らを預言的に用いますが)。第一ペテロ2章では、私たちは「生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司」と呼ばれています。私たちは皆、神に近づくことのできる祭司なのです。このメッセージは、牧師や宣教師、ワーシップリーダーだけではなく、イエス様に従うすべての人に向けられたものです。
幕が破れた後、イエス様は復活され、その後、天に昇られました。そして、イエス様に代わって、私たちの中に住み、私たちを導く聖霊様を遣わされました。イエスの昇天(しょうてん)と聖霊の降臨(こうりん)によって、イエスは、私たちが神への直接のアクセスに参加するために必要なもの、そして、私たちが変えられるために必要なものを正確に与えてくださいました。神のみ声を聞くということは、関係性と変えることに関わることです。親密な友情の中でイエスに近づき、イエスに似た者になることです。ですから、昇天後の時代に生きる私たちにとって、神様の御臨在は、私たちの中に住む聖霊という形で、常に私たちとともにあるのです。もし私たちがイエスに従うことを選び、人生をイエスに委ねているなら、その第一の要素はすでに満たされており、神はいつも私たちと共におられます。
しかし、サムエルのように、神様が話していても、私たちは神様が話していることに気づかないかもしれません。私たちには、今一度耳を傾け、耳を傾けることができるようにするためのシンプルな指示を与えるエリが必要かもしれません。今夜の私は、皆さんにとってそのような存在でありたいと願っています。つまり、神があなたに与えようとしていることに耳を澄(す)ますように励ますのです。
しかし、今の時代、それは「言うは易く行うは難(かた)し」です。 私たちは、世界、肉、悪魔という3つの要素に常に直面しています。これらの声が、私たちの人生における真実と平和の声をかき消してしまうことがよくあります。私たちは、仕事や携帯電話、人間関係、心配事、個人的な希望や夢、さらには教会の活動などに簡単に心を奪われてしまいます。私自身のことを考えてみると、特に大学の1、2年生の頃は非常に忙しく、ようやく神に耳を傾けるスペースを確保できたときには、寝坊して体が「やめてくれ!」と言っていたことが原因でした。
C.S.ルイスの『スクリュータイプ・レターズ』を彷彿(ほうふつ)とさせる、ある牧師から聞いた話を紹介します。サタンの頭目(とうもく)の悪魔が下級(かきゅう)悪魔にクリスチャンを攻撃する方法を教えているところを想像してみてください。
「彼らを人生の不要なことに忙しくさせ、彼らの頭を満たすために無数の計画を考案しなさい。過剰にお金を使うように誘惑しなさい。週に6、7日、1日に11、12時間の長時間労働をするように説得します。子供と過ごす時間を奪う。家族がバラバラになると、家にいても仕事のプレッシャーから逃れられなくなる。心を刺激(しげき)しすぎて、小さな声が聞こえなくなる。通勤時には、音楽やポッドキャストを流すように仕向ける。家の中では、電話やテレビ、パソコンを常に動かしておく。これは彼らの心を詰まらせ、キリストとのつながりを壊します。休みの日にも、彼らに過剰なことをさせます。休みの日には、疲れ切って、不安になって、次の週の準備ができていない状態で帰ってこさせます。自然の中に出かけて神の驚異(きょうい)を考えるのではなく、スクリーンに目を釘付(くぎづ)けにするようにしましょう。奉仕活動や伝道活動に参加させても、あまりにも多くの善行に追われて、キリストに力を求める時間がありません。すぐに彼らは自分の力で働き、大義のために健康や家族を犠牲にすることになるだろう。」
この話は、サタンが私たちの注意をそらし、神の声をかき消すために使う世の声を示しています。そのため、私たちは神の声を認識する機会さえありません。私たちは、iPhoneやデバイスのスクリーンタイムをチェックするだけで、いかに他のものに注意を向けているかがわかります。 平均的なスマートフォンユーザーは、毎日2,617回、平均2時間半も携帯電話に触れており、ミレニアル世代ではその2倍になります。
このように、私たちを悩ませるのは世間の騒音であり、次に肉です。パウロはローマ人への手紙7章で、私たちの中には霊と肉の間で願望の戦いがあると語っています。彼は自分の罪深い肉を帰して、「自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」と言っています。パウロは、たとえ私たちの中に聖霊がいたとしても、肉はまだ存在し、私たちに対して積極的に働きかけていることを明らかにしています。次の章では、肉ではなく霊に心を置くようにと促しています 「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」 御霊ではなく、肉に心を置くようになると、私たちは簡単に自分を責めるようになります。ヨブは苦しみの中で、「たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める」と言っています。 私たちは、神の恵みとあわれみを忘れ、自分が無価値であるという肉的な自分からの嘘を信じてしまいます。ことわざにもあるように、「私たちは自分自身の最悪の批評家(ひひょうか)になる 」のです。
そしてもちろん、これらのことに加えて、悪魔であるサタン自身が、さらに私たちの頭と心を非難の思いでいっぱいにしてしまいます。ジェイミー・ウィンシップが言うように、「サタンは、あなたがすでに信じていることしか言わない」ということがよくあります。ジェイミーさんは言って、「サタンの言うことを信じるには、信仰は必要ありません。サタンは『お前はバカだ』と言いますが、私たちは『知っているよ』と言います。『あなたは偉大なことを成し遂げられない』『知っているよ。』」 サタンは、私たちが罪のために自分自身に対して抱いている肉的な考えを強化しているだけなのです。また、サタンは非難する考えだけでなく、私たちを迷わせる考えも植(う)え付けています。創世記3章のエデンの園(その)を思い出してみてください。蛇であるサタンは、エバに 「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか」と言います。彼は、神が定めた道から私たちを突き落とすために、神の元の言葉を歪めてしまうのです。
この宣教師、ジェイミー・ウィンシップは、神のみ声を聞く方法を教える際に、世の声、肉の声、悪魔の声を黙らせてくれるように神に祈ることから始めます。彼はこう言います。「あなたがずっと聞いてきた声が静かになれば、もっとよく聞こえるようになります。その声は、あなたには価値がない、あなたには何か問題がある、あなたがやろうと思っていることは馬鹿げている、あなたは絶対に成し遂げられないと、あなたの人生にずっと存在していました。恐怖、罪悪感、恥が自分のアイデンティティになるほど、あなたの中に生み出されています。だから、自分のアイデンティティである内なる声、つまり生ける神と結びついた自分の精神、自分の中の聖霊の声が聞こえないのです。」
このように、神の声を無知から認識へ移行するプロセスは最も重要ですが、他の声が私たちの周りに囲まれているときには、それは本当に難しいことです。騒がしい世の中、忙しい生活の中で、神の声を聞こうと努力することは難しくても、ヨハネ10章でこのたとえ話をされているイエス様ご自身に慰められると思います。「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」私たちは、良い羊飼いであるイエスの羊として、イエスの声を知っています。その声が来れば、私たちはそれを知ることができます。私たちは、その「ほかのひと」から、つまり私たちの注意や献身を奪おうとしてくる敵から逃げ、良い羊飼いの声だけに耳を傾けることを学ばなければなりません。
世の中の声、肉の声、悪魔の声とは異なり、神の声は憎しみではなく愛であり、落胆ではなく励ましです。神は決してご自身と矛盾(むじゅん)しないので、その言葉は常に聖書に書かれている神の言葉と一致します。神の声は罪を明らかにさせますが、責める声ではありません。罪を明らかにさせる際、破滅(はめつ)の道ではなく、新しい命の道を与えてくださいます。自分の中にある罪を憎めと言いますが、自分を憎めとは言いません。それは恵みに満ち溢れた声であり、あなたが神の子であり、天上で神の食卓(しょくたく)に着いていることを確信させてくださいます。
認識から積極的な傾聴へ
神の美しい声を認識し始めたら、認識から積極的な傾聴へ移行しなければなりません。 つまり、神様のみ声に全く注意を集中させるのです。ここで、10節からを振り返ってみましょう。「10 主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。11 主はサムエルに言われた…」そして、サムエルは、神がこの預言をするのを聞いていた。
サムエルは再び横になり、今度は神の言葉に耳を傾けようとします。サムエルがエリの口から聞いたシンプルな言葉はとても力強いものでした:「お話しください。しもべは聞いております」。神の声を認識し、積極的に耳を傾ける姿勢になって初めて、神はこの預言を伝えます。 私たちも、神の声を本当に聞きたいと願うなら、世の声、肉の声、悪魔の声が黙らせられる空間を作るだけでなく、「お話しください。しもべは聞いております」という心の姿勢を養わなければなりません。
だからこそ、私たちは教会で、沈黙や孤独、神との黙想の時間を強調しているのです。私たちは、ただ受動的に周りの声から逃れることを期待するだけではなく、創造主であり救い主である方の声を聞くことができるように、生活の中で積極的に沈黙を求めて戦わなければなりません。山吹町スモールチャーチでは、毎週土曜日に10分間の静かな時を持ちます。そこでは、各自一週間を振り返り、神様が何をされているかを認識し、できれば前に導く声に耳を傾けることができます。水曜日の祈り会では、5分または10分の沈黙の時間をとり、その日の忙しさや心配事から心を空っぽにして、神様に話しかけるだけでなく、神様からの声を聞く準備をします。私たちはよく「あなたの御臨在の中に身を置きます」という言葉を口にします。これは、私たちが自分に注がれた神の言葉を受け取る準備ができていることを、神に示すためのものです。また、聖餐式を行う際には、沈黙の時間を設けて自分の心を吟味し、まだ告白していない罪を神様に明らかにしていただきます。もちろん、私たちの教会では、一人ひとりが毎日、神さまの言葉を読み、それを黙想し、祈る時間を持つことを願っています。できれば、神様に話しかけるだけでなく、静かに座るままで、神様が私たちに何かを応答してくれるかどうかを耳を傾けてみるのです。これらの実践は、意味のない繰り返しではありません。敵の声を消し、神の御臨在の中へと私たちを導くためのものであり、私たちは神に全く注意を集中して耳を傾け、従う力を得ることができるためです。
積極的傾聴から服従へ
この神の声を聞くプロセスの最後のステップは、積極的な傾聴から服従への移行です。サムエルが神の預言を聞いた直後の箇所を振り返ってみましょう。15節からです。 15 サムエルは朝まで寝て、それから主の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。17 エリは言った。「主がおまえに語られたことばは、何だったのか。私に隠さないでくれ。もし、主がおまえに語られたことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」18 サムエルは、すべてのことをエリに知らせて、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように。」
神がサムエルに与えた預言を覚えているなら、彼の上に立つ霊的な指導者であるエリに伝えるのは簡単なことではなかったでしょう。サムエルが神に従うためには、神がエリの家に罰を与えようとしていること、そして 「エリの家の咎(とが)は、いけにえによっても、穀物(こくもつ)のささげ物によっても、永遠に赦されることはない」ことをエリに伝えなければなりません。うわぁ。幸いなことに、この場合、エリは賢く、サムエルに神が語られた言葉を話すように促し、サムエルはそれに従いました。しかし、もしサムエルが従わなかったら、神の声を認識し、その声に注意深く耳を傾けることを学んだすべてのプロセスは無駄なものになっていたでしょう。もしその言葉がサムエルの中に溜(た)まったままだったら、彼に良い影響を与えるどころか、もっと大きな損害を与えていたでしょう。しかし、サムエルが神に従い、この預言を伝えたことで、彼は神に用いられ、神の仕事に参加する特権を得ることができたのです。そして、この従順の最初の一歩が、神が彼に語りかけ、彼をますます用いていくことにつながったのです。サムエル記3章の次の2節には、「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。」と書いてあります。
これに対して、私はヨナの物語を思い浮かべます。ヨナの1章の最初の3節にはこうあります。「アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。」ここでは、ヨナは神の声を認識することに問題はなく、耳を傾け、神が何を望んでいるかを正確に理解していたことが明らかになっています。 彼の問題は、聞くことから服従へ移行することを断ったことです。彼はニネベに行かないと決めただけではなく、積極的に神の御臨在からタルシシュへと反対方向に逃げたのです。
しかし、この物語の素晴らしい点は、 神がまだ自分のわざを成し遂げます。神の使いであるヨナが従わなかったにもかかわらず、神は嵐と大きな魚を送ってヨナを飲み込み、ニネベに連れ戻す方法を見つけました。この恐ろしい体験の後、ヨナはいやいやながらも従順になり、ニネベの悔い改めと神の憐れみの一端を担うことになります。このように、 神の御心が成し遂げられるかどうかは私たちの従順さにかかっているわけではありませんが、私たちが神の御心を味わい、それに参加するかどうかは、私たちの従順さにかかっていることがわかります。もしヨナが最初に神からはっきりと語られた言葉に従っていたならば、彼は多くの痛みや苦悩を免(まぬが)れ、ニネブ人を救うという神の計画にいやいや参加する代わりに、喜んで参加することができたことでしょう。
私自身の話を思い出してみましょう。「医学生になるのをやめて、世界に福音を伝えなさい」という神様からの最初の召しを聞いた後、私は恐れて反応する可能性もありました。経済的な安定や学問的な名声を求めて、別の道を歩む可能性もありました。それまでの私の人生の多くは、ヨナのように、神の声に気づき、耳を傾けながらも、神の御臨在から離れた別の方向に歩むことを決めていたのだと思います。神様が「あなたはこういう罪を犯している」とおっしゃるのを聞いて、聖霊が私の罪を明らかにしていることをはっきりと知っていながら、悔い改めることなく、神様から逃げて罪を続ける決断をしていたことを覚えています。神様が私の個人的な夢を捨てろと言われた時には、御霊が私の中に働きかけてくださり、「はい、従って行きます」と答える準備ができていたことを感謝しています。私は従う準備ができていて、神が私を導いている場所から離れるのではなく、そこに向かって走る準備ができていました。最初に宣教地に召されてから、具体的にどこに行くべきか、誰と働くべきか、いつから始めるべきか、神さまの御心を求め続けて9カ月が過ぎました。一度にすべてが明らかにされるわけではありませんでしたが、神のみ声を認識し、神の言葉に耳を傾け、最終的に神に忠実に従うことを熱心に求めたその過程が、私自身の聖化につながりました。そして、聖化されただけでなく、神の国が日本に訪れ、弟子が作られ、神の教会がここに建てられるという神の計画に、喜んで参加することができたのです。もし私が不従順であったならば、日本に贖いをもたらすという神の計画は妨げられなかったでしょう。しかし、私が従順であったおかげで、5年前に神さまがはっきりと私に求められ、今日も残るように求められている場所にいることを知り、大きな平安と喜びを得ています。そして、先に述べたように、神様のみ声を聞くということは、関係に関することです。神のみ声を認識することを学び、積極的に傾聴する時間と空間を確保し、その声に従うための力と大胆さを求めることは、すべて目的のための手段です。その目的とは、父、御子、聖霊との親密な友情です。
さて、皆さん、ちょっと考えてみましょう。私たちは、神の声を聞くという旅のどの段階にいるでしょうか? 私たちは、無知から認識へと移行する必要がありますか?認識から積極的な傾聴へ?積極的傾聴から服従へ?どの段階も恥ずかしいことではありません。なぜなら、神の恵みは満ち溢れているからです。神はどこにも行きません。もしあなたがイエスに従うことを選んだのなら、あなたの中には聖霊があなた自身の霊と一緒に住んでいます。神様は、あなたの名前を呼び、あなたがどれほど愛されているか、どれほど尊いかを伝え、あなたが熱心な従順と豊かな喜びの人生を歩むように導く準備ができています。準備ができていることを、神に伝えなさい。






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