目を高く上げて、見よ
- Shige Nakazawa
- 2021年2月13日
- 読了時間: 16分
2021/02/13 // セレブレーション 説教 // イザヤ書40章25~31節
イザヤ書40章25−31節
25「それなのに、あなたがたは、
わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか」
と聖なる方は言われる。
26あなたがたは目を高く上げて、
だれがこれらを創造したかを見よ。
この方はその万象を数えて呼び出し、
一つ一つ、その名をもって呼ばれる。
この方は精力に満ち、その力は強い。
一つも漏れるものはない。
27ヤコブよ、なぜ言うのか。
イスラエルよ、なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、
私の訴えは私の神に見過ごされている」と。
28あなたは知らないのか。
聞いたことがないのか。
主は永遠の神、
地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、
その英知は測り知れない。
29疲れた者には力を与え、
精力のない者には勢いを与えられる。
30若者も疲れて力尽き、
若い男たちも、つまずき倒れる。
31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。
皆さん 改めましてこんばんは。ようこそスモールチャーチファミリーのセレブレーションにご参加くださいました。
コロナ禍が収まらないまま明けた2021年も、2月半ばに差し掛かろうとしています。
人それぞれに、様々なインパクトをもたらしてきているパンデミックだと思いますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
会社にお勤めの方は、結果を出すため常にあるプレッシャーに加えて、コロナ禍がもたらす変化やチャレンジへの対応に苦労されていることかと思います。
ただでさえ、上司や、同僚、また部下との人間関係の複雑さ、しがらみがあります。周りの目や 人の声も、いつも気になります。
人によっては、在宅勤務になったことで、今まで常に突き動かされていた何かが外れ、虚無感の中に生きている人もいるのかもしれません。
子供さんたちや学生さんたちは、楽しみだった多くの行事が中止になったり、友達とも自由に遊べない中イライラを感じているかもしれません。
就活中の学生たちは、新卒採用が減ったり、
希望する業界が不景気など、厳しい現実に直面しています。
またここ数日は、東京オリンピックの先行きもますます雲行きが怪しくなってきています。
私たちは、息苦しく、また先が見えにくい時代を今生きています。
そのような時、心の中には不安が増しがちです。
自分の人生、私たちの家族、どうなっちゃうんだろう。
私たち人間というのは、
外からのあらゆる変化や刺激にいつも囲まれています。
そして、自分の内側からもそれらに対する反応があり、
言葉にしにくい深い思いが 色々渦巻いたりしてします。
人によっては、これこれこういうことがこういう風に自分に起こっているので、自分は今これこれこのように感じている、と分析できる人もいるかも知れませんが、
私みたいな人などは、あまりそう細かく明晰に自分を観察できる方ではなく、ただ、漠然と感覚として重く感じたり、軽く感じたり、そういう人も少なくはないでしょう。
そして放っておくと、心はどんどん内向きになって行き、
目線はどんどん下に下がってきます。
教会としてもなかなか生で顔を合わせられない中、
いつの間にか、自分の信仰も弱くなったりしているかも知れません。
そのように本当に色々なことが私たちの人生に起こっている中、
神様は一体どこにいるのでしょうか。
自分が生きている複雑な状況と心境、見てくれているのでしょうか。
わかってくれているんでしょうか。
見て、わかってくれているんなら、助けてくれないんでしょうか。
時々、神様の助けを実感することができず、神様に対して不満を感じたり、失望したりすることがあるかもしれない。いや神様の存在自体を疑ったりしたくなる時すらもあるかもしれません。
今日のイザヤ書の御言葉。
これは、バビロンという遠い異国に「捕囚」の民として生きていた神の民イスラエルに、神が預言者イザヤによって語られるメッセージです。
「捕囚」という言葉、聞き慣れておられない方のために説明しますと、
バビロン捕囚ともいい、
紀元前7世紀から6世紀にかけて、
現在のイラク南部にあたるバビロンを中心に栄えた新バビロニア帝国の王ネブカドネザル2世が、
イスラエルの南部・ユダ王国を攻略し、
その時生き残ったユダヤ人たちの大半を
バビロンを始めとしたバビロニア地方に捕虜として連行し、
強制移住させた事件を指します。
約束の地と言われたカナンに神によって導かれて
そこにしばらくは植わりながらも、神への頑なな不信仰を重ね続けたイスラエルは、ついに神様に繰り返し警告されていた通りに、自分の故郷から引き抜かれ、バビロニアにおける捕囚の民となっていました。
その彼らはどんな思いだったのでしょう。
全天地の創造主である方が自分たちの神だったはずなのに、
今私たちはこんな異教の国で、悩み苦しめられている。
自分たちを取り囲む、まことの神を認めない世の圧力。
希望が見えない。
そして内には満ちる苦い心。
v.27 そして、彼らも、神に対する不満と失望を口にしたのです。
27節の言葉
「私の道は主に隠れている。
私の訴えは私の神に見過ごされている」
自分たちが通らされている悩ましい現実の苦さと複雑さは、主には見えていない。わかってもらえてない。
主は、自分を守ってくれるはずなのに、
必要を与えてくださるはずなのに、
自分のために事をなしてくださるはずなのに、
・・無視されている。
今日の私たちも、口にはそう出さなくとも、心の中でふと感じてしまうことがありありの悩みを、当時の彼らも時代は違えど持っていた。
そしてその彼らに対して神様はどう答えるのか。
彼らに語ってくださった御言葉を通して、
主は、今日の私たちにも出会ってくださいます。
今日の箇所で、神様は二つのことを私たちに言ってくださっておられるのではと思うんです。
一つ目は、
「目を上げて、わたしを仰ぎ見なさい」
二つ目は、
「わたしを待ち望みなさい」
です。
一つずつそれでは、見てまいりましょう。
25節後半から、26節まで。
「聖なる方は言われる。
あなたがたは目を高く上げて、
だれがこれらを創造したかを見よ。」
神様は、失望で心疲れて項垂れていたであろう神の民に、
「目を高く上げよ」と言われました。
下を向くのではない、内を見つめるのでもない。
「目を高く上げよ」
そして「見よ」と。
何を、誰を?
「だれがこれらを創造したかを、見よ」
彼らがその重い目を、言われてやっと上げてみると、そこには満天の星。
どうぞご一緒に想像してみて下さい。
バビロニアの暗い夜空に、幾千もの、輝く星。
よく見なさい、と。
わたしがこれらすべてを造ったのだよ。
そこにある美しさ、秩序、これら全てを無から作り出し、
天に置いたのがわたしだよ。
目を離すな、見続けなさい。
これらによってあなたに伝えることがある。
あなたの魂に、教えることがある。
わたしは、神。
わたしが、神。
神が神である、ということが魂の深みでわかった時、
この神を私たちが心の目で見た時、この方と出会った時、
私たちの心は不思議と、満たされます。
心の不安や不満は溶け去り、
失望の闇は、光に変わってきます。
ずっと神様から要求していた答えっていうのは、
自分がアタマで納得いくような筋の通った正解などでは、
なかった。
いやむしろ、
自分の造り主、世界の造り主であるこの方、
と出会うこと、だった。
そして神の御言葉は続きました。
「だれがこれらを創造したかを見よ。
この方はその万象を数えて呼び出し、
一つ一つ、その名をもって呼ばれる」
今日 天文学者たちは、私たちの地球がある「天の川銀河」
と呼ばれる銀河系において、
約4000億個の恒星があると推測しているそうです。
恒星っていうのは、自分から燃えて光っている星のことですね。
太陽も恒星の一つです。
地球とかは、太陽の周りを回る、惑星ですね。
でも恒星の数だけを数えて、それが私たちの天の川銀河において、
4000億あると。
さらに学者たちの予測では、
このように無数と言える数の恒星を擁する銀河が、
全宇宙に1250億個存在するであろうと言うことです。
単純計算で言えば、4000億かける1250億で、
宇宙には合計100億兆の恒星がある。10の22乗です。
もう多すぎで何が何だかですね。
私たちのような普通の人間には、
数が大きすぎて、ぜんぜんピンときません。
でも神様は違う。
26節後半
「この方はその万象を数えて呼び出し、
一つ一つ、その名をもって呼ばれる。
この方は精力に満ち、その力は強い。
一つも漏れるものはない。」
文字通り無数です、この大宇宙に広がる星々。
これらを神様は、数えて呼び出された。
星々よ、あれ。
と言われてこれらをたやすく、無から創造された。
当然これら一つひとつの名前も知っていて、
その一つたりとも、その知識から漏れるものがない。
凄すぎる。
次元が違いすぎて、無感覚になりそうです。
でも、そんな凄すぎる、大きすぎる方には、
こんな小さな私の生活の複雑な悩みはわからない、
と もしあなたが感じるなら、
申し訳ないですが それは間違っているのです。
この神の知識に漏れることは一つもない。
あなたという方も、神は知っておられる。
わかってくださっている。
それが、ここのポイントです。
神ご自身がその霊感によって著された預言書の中で
なぜあえて神の民の不満と失望の言葉を引用しているのか、
「私の道は主に隠れ、
私の訴えは私の神に見過ごされている」
と。
それは他でもない、その真逆こそが、無限の知識を有する神にとって本当であることが明らかであるからです。
真実は、
私の歩んでいる道は主に隠れていない、主は見てくださっている。
大宇宙の万象の一つ一つを作り、それらを一つも漏れず知り、保っておられる神は、私たちをも造ってくださった。
私たちの人生の、生活の、事細かい複雑な事情も悩みも戦いも、一つも漏れなく知っておられる。見てくださっている。
私の訴え、私の必要、叫びは神に忘れられてなどいない、
しっかり覚えてもらっている、のです。
神の民よ、とこの方は語りかけてくださいます。
なぜ言うのか。
イスラエルよ、なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、
私の訴えは私の神に見過ごされている」と。
「あなたは知らないのか。
聞いたことがないのか。
主は永遠の神、
地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、
その英知は測り知れない。」
私たちは、「仰ぎ見よ」と言われなければならない者です。
この方を、仰ぎ見よ、と。
日々の生活における重圧や心配、
人生のいろいろな悩みに心重く項垂れてしまう私たちに神様は、
「目を高く上げて、わたしを仰ぎ見なさい」
と、言ってくださるのです。
イザヤ書、少しあとの45章では、神様はこのように呼びかけられます。
「地の果てのすべての者よ。
わたしを仰ぎ見て救われよ。
わたしが神である。他にはいない」
上を向く気が しないかもしれない。
神に目を向ける気など しないかもしれない。
自分はただ下を向いていたい、内を見つめていたい、
それでいいと思うかもしれない。
でも、この神を求めて目を向けるそのとき、
そこにこそ新しい力がある。
救いがあるのです。
「目を高く上げて、わたしを見なさい」
次に、今日の箇所で神様が私たちに語られていることの二つ目。
それは、「わたしを待ち望みなさい」です。
もう一度28節からお読みします。
28あなたは知らないのか。
聞いたことがないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、
その英知は測り知れない。
29疲れた者には力を与え、
精力のない者には勢いを与えられる。
30若者も疲れて力尽き、
若い男たちも、つまずき倒れる。
そして最後の31節
31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。
「主を待ち望む」とはどういうことなのか、少しご一緒に考えてみたいと思います。
言わずと知れたことですが、
私たちは、待つことは好みません。
やらなきゃいけないことを、今やらなければならない。
必要が、今あるんだ、と。
失われているものが、今あるんだ。
機会、私の時間、お金、将来の可能性、締め切り。
今必要なんです、と。
見てないんですか、わかってくれていないんですか、
気にしてくれないんですか。
主を待ち望むとは、
目の前にある仕事をするなということではありません。
でも自力だけでは解決できないことがある。
見えない出口がある。
実は、人生はそのようなことばかりです。
仕事を見つけること。
職場での人間関係の問題。
入学試験。
結婚相手を見つけること。
自分の愛する大切な人が、イエス様を信じるようになってくれること。
まだまだいくらでもあります。
その解決が、その出口が、主の時に、主の道によって
与えられることを、信じて待つことです。
そして、主がその解決や出口を与えてくださるまで、
待つことによって失われるものがあり得ることも否みません。
確かに、目の前の機会、私の時間は去っていく。
でも主は、忠実なお方。主は私の本当の必要を知っておられる。
主は、私のために持っておられるご計画を知っておられる。
自分にはわからないし、見えないかもしれないが、
主が最後には全てのことを用いて、良き御心をなしてくださる。
私は、この主に望みをかけており、主を信じている。
ということです。
でも、そんなこと私にはできない、
とお感じになる方もいるかもしれません。
私は、実利的で実際的な人間です、と。
目の前に問題があるのに、それをいつ答えてくれるかもわからないような、目にも見えない神が助けてくれるのを待ち続けるなんてこと、私にはできません、と。
では一体どうやったら、神様に対するそのような信仰を持って生きることができるようになるのでしょうか。
二つ、おわかちしたいと思います。
一つ目は、この神という方を私たちが知ることです。
28節でこうありました。
あなたは知らないのか。
聞いたことがないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、
その英知は測り知れない。
この「主」という神のお名前自体に注目してみたいと思います。
新改訳聖書で、太文字の主と訳出されている、ヘブライ語のヤハヴァーという言葉は、
基本的に「ある、おられる」という意味があります。
私たちの肉眼には見えないかもしれないですが、
この方は、おられる。
当たり前じゃんそんなの、特にここは教会なんだから、
と言われるかもしれませんが、
これはとても大事なことです。
私たちは、全員がこの主によって造られています。
この方のかたちに造られていると、
この方を知るように、この方と共に歩むようにと
造られています。
なので、実は 言われなくても、魂の底の底では、
この神なる主がおられることは、
私たちは直感的にわかっているのです。
でも、私たちはこの神なる主がおられ、そしてこの方によって私たちが作られているということを、疑ったり否定する声に囲まれてこの世で生きています。
また本来は神ではない、実に色々なものがカミなんだと
主張する声も、この日本では私たちを取り巻いています。
でも、すべての創造主なる方、実在する唯一の神であるこの主は、おられる。
この方が、私たちのために、おられるのだ、ということを忘れてしまうことが、実は私たちが希望を失ってしまうことの一番の根っこなのです。
アタマでは神様がいてくださる、と言っています。
でもその事実と現実を、私たちは魂で、いつも確信していなければならないのです。
主を待ち望むことができるために、実はこのことこそ、
乗り越えなければならない一番大きなことなのです。
これができれば、この神が永遠の方で、無限の力と知識を有し、私たちを愛してくださっていることも、自然に流れてきます。
みなさんに敢えてお聞きします。
主がおられること、信じていますか。
主は、おられます。
心の中で、今告白してみましょう。
主よ。あなたがおられることを信じます。
あなたを信じます。
この主を待ち望む信仰を持って生きることができるには。
その二つ目。
それは、自分の限界を悟り、認めることです。
30若者も疲れて力尽き、
若い男たちも、つまずき倒れる。
自分の力をまだ信じている人は、なかなか主を待ち望むことはできません。
主を待たなくても、自分でやっちゃえばいいし、できちゃうんですから。
・・・と、自分ではそう思っているのです。
でも事実は・・・
自分の力というのは実は、そう大きくない。
そう長く持たないし、頼りにならないものです。
私たちはどれだけ力あると自負する者でも、疲れます。
折れます。
私も若い頃は、高校大学と体育会で、かなり無理なことをしました。
自信満々で、向こう見ずでした。
しかし、やがて自分の能力の限界を思い知り、
自分はもうダメ、と人生の谷底にいる自分を見るとき、
それはあなたのチャンスなのです。
あなたがこの主という方を信じて、この方を待ち望む幸いにあずかれるチャンスなのです。
でもおっしゃるかも知れません。
そんな、目にも見えない神を信じて待つなんて、気が遠くなる。
非現実的で、自分にはできない。
自分には毎日、やることが山のようにあって、
それをこなして行かなければならないんだ。
神を待ち望んで生きるなんて、難しい。
言いたくなるお気持ち、わかります。
でももう一度、あなたを招くこの主の言葉を聞いていただきたい。
30若者も疲れて力尽き、
若い男たちも、つまずき倒れる。
31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。
自分に頼って生きて行かなければならない、とおっしゃるあなたは、
申し訳ないのですが、やっぱりいつかは疲れ果ててしまわれるでしょう。
自分の力の限界に最後には失望されることでしょう。
しかし、主を待ち望む者には、
待っている間、主がいつも新しく力を、
そう 私たちには作り出すことのできない新しい力を、
与えてくださるのです。
もう疲れて、限界、もうやだ。ダメだ、というときに
新しく流れてくる力を経験できる。
鷲が、翼を広げて上るように。
たとい翼をはためかせる力が無くなっても、
主が下から送ってくださる風に乗って、上に上ることができる。
船を漕ぐ自分の腕の力が絶えた時、
主が風を帆に風を送って進ませてくださる。
これまで自分の人生に何度もありました。
壁に当たり、道が見えず、失望し、もうダメです。
疲れました、できません。
と主にありのままの心を注ぐ時、
この神様は決まって
「わたしを信じていなさい。
お前のためにわたしは計画を持っているんだよ。
お前を愛している。
わたしを信じていなさい」
と疲れた自分の心からは作りだしようもない
励ましと、慰めと、安心を与える声。
魂を新しくする声もって、私を強めて下さいます。
主ではなく、他のものを待ち望むとどうなるでしょうか。
政治はどうでしょうか、経済はどうでしょうか。
試験に合格すること、結婚相手を見つけること、有名になること、
円満な家庭を作ること、会社にいる難しい人がなんとかなるようになること。などなど
それら自体は悪いことでは決してありませんが、
私たちが、これらのことに最終的な望みをかけて生活しているなら、つまり、心の中で、これさえあれば、これさえできれば、私の生活はうまく行くのだ、幸せになれるのだ、と信じて生きるのであれば、
それらはあなたにとって偽りの希望、偽りの神々、つまり偶像となっているのです。
神様でなく、それらのどれでも、それを第一に求めて生活する時、あなたは疲れ果て、それに囚われてしまうでしょう。
そして最後は失望と傷で終わってしまうでしょう。
かのアメリカでは、多くの人々が、主を待ち望む代わりに特定の政治リーダーを頼りにした結果、大変な混乱と分断が傷が起こり、今でも癒しが必要な状況が続いています。
経済も、時によって上がったり下がったりで、本当の頼りにはできません。
実は、受験で成功することも、良い会社に就職することも、結婚できることも、家族が円満になることも、健康も、
私たちの最終的な希望を委ねるには、拠り所として貧弱すぎるのです。
25節で神は言われました。
それなのに、あなたがたは、わたしをだれになぞらえ、だれと比べようとするのか」と聖なる方は言われる。
31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。
目を上げて、主を仰ぎ見る。
この主の力によって生きる者となるために
この主を待ち望む者と、ならせていただきたいと思います。






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